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道尾秀介氏「球体の蛇」

道尾秀介氏の「球体の蛇」を読み終えた。
ネタバレを含んでしまうが、自分なりの感想文を書いてみる。


芥川龍之介の「藪の中」のように、同一の事象が複数の視点によって全く異なる因果関係を語られる。
この小説の中では大きな事件が色々と出てくるが、「藪の中」のように真相はわからない。
ただ、「藪の中」が完全に第三者視点で描かれているのに対し、この小説の主人公はそれぞれの見方に当事者として影響を受ける。
そして自身の現実問題として、いずれかを「正」として受け入れて生きていくしかない。

球体の蛇の"球体"は、冒頭でスノードームとして表現されており、内(当事者)と外(第三者視点)とがあることが示される。
結局のところ、最後の一文によって、内(当事者)として、真相がどうであっても今見えている現実を受け入れざるを得ないことを意味している、と解釈した。
もしも生まれ変わるのであれば生まれる前から…との結論に達しているが、別の人生であっても結局は真相とは別に今ある理解に従って生きていくしかない。

本作品では、それを哀しみとして表現しているようには思える。
一方、人は日常でもそれを受け入れて折り合いをつけているように思える。
極端な例では、歴史的事実としているものが仕組まれた内容だとしたら…と妄想することはある。
たとえば古事記日本書紀そのものが後人の作り出した小説だとしたら…あるいは直近では幕末の逸話がすべてウソだとしたら…。
そうした内容は、物的証拠の多さで「正しい」とされるが、時間を戻せない限り真相はわからない。
でも、それで折り合いをつけている。
日々の記憶についても真相はわからないが、脳による補完を含めて、「記憶」した内容で生活している。

だから、そうした球体を飲み込んだ蛇は普通のことであって、取り立てて苦しむ必要はない。
それが見えている山を見えなくする、大人になるということでもあると思った。